「天声人語」にあやかって「渓谷飛越」、つまりグレンオーヴァー。30年以上前に新聞で連載されていた珠玉のメッセージを全7回にわたって紹介する企画。今回は第2回、是非ご覧いただきたい。
尊敬する人は?と聞かれて真っ先に思い浮かぶのは「赤峰幸生」と「江頭2:50」。
先日、赤峰幸生氏から資料を整理している際に見つけた資料ということで、過去に新聞に連載していた「渓谷飛越」の記事をご連携いただいた。
全8編からなる「渓谷飛越」だが、第2回となる今回は3編目をご紹介させていただく。
第2回なのに3編目というのは前回の第1回目に序文となる1篇目と、2編目を同時に紹介したからだ。
わかりにくくて申し訳ないがご理解をいただきたい。
皆、空洞
「ライト」(軽い)であればカッコいい。
わが国の文化は、いつのまにかみなそうなってしまった。
食、飲、服、雑誌、住宅etc。
しかしライトな文化とは、言い換えれば、無垢(むく)ではなくて、即席のまやかし物である。外見が備われば完成したかのように思えるのは、あくまでも錯覚で、すべてを外見から判断する昨今の風潮から生まれてきた弊害だろう。
そのために中身が空洞化してしまっているのがこわい。
世はすべてビジュアル時代。確かに視覚に訴える長所、強みはあるが、精神的な裏づけが正しく働いていなければなるまい。
仕事柄ヨーロッパに出掛けることが多いが、ここには無垢の文化があり、大切にしていることがよく分かる。
G・アルマーニの服を褒める人が多いのは、シーズンごとに打ち出される新しい色や型の背後に、アルマーニの精神的な哲学からわき出てくるにおいが感じ取られるからだろう。
振り返ってみれば、日本の文化にも、平安、江戸、そして明治ごろまでは「粋(いき)」が深く根を下ろしていた。
それが戦後はすっかり消え失せて、紙細工と化してしまった。その紙細工にいっぱしの値段がついているのがまた癪(しゃく)の種である。
一部の日本人がようやく「こんなはずではなかった」ことに気付き、本物指向をするようになってきたのは歓迎すべきだが、願わくば、空洞化したニセ物を本物と呼ぶのだけはやめてほしい。
外国から、「空洞化日本」「記号化日本」のレッテルを貼られないためにも。
われわれもそういうメンズウェアメーカーと呼ばれないよう、自分たちが真にクリエーティブであるかどうか、絶えず見つめ直していかなければ、と心している。
バブル期の空気感を「ライト」と評して風刺したのか。
すべてを外見から判断する昨今の風潮から生まれてきた弊害だろう。
そのために中身が空洞化してしまっているのがこわい。
2022年の現代に生きる我々はこの文章を読んでどう思うだろうか。
その次の文章も強烈だ。
世はすべてビジュアル時代。確かに視覚に訴える長所、強みはあるが、精神的な裏づけが正しく働いていなければばるまい。
1980年代に書かれたこのメッセージを読んで筆者が思うことは、当時と現代を比較したときに進歩がないということだ。
前回も書いたが、ビジュアル偏重という意味では、現代の方がより酷い。特に男性においては年々酷くなっている。それが女性から求められているのだろうか。
男性の女性化に精神的な裏づけなんてものはなく、そこにあるのは自己顕示欲や承認欲求だろう。
ファッション好きは未だにブランドでものを語る。これはどこどこのブランドだ、それを所有していることで自己顕示欲を満たす。
他の人とは違う、奇抜な服装をする自分はカッコいい。そんな承認欲求の満たし方しか出来ない。
日本において服飾「文化」なんてものはどこにあるのか。
和服がある?それは確かに日本の文化だ。だが誰も着ていないではないか。現代において洋装の文化はないということだ。
そういう意味では昔の日本人は偉大だ。和服を生み出し服飾文化を築いたのだから。
粋は失われるのか。
気質・態度・身なりなどがさっぱりとあかぬけしていて、しかも色気があること。また、そのさま。
粋(いき)を調べると上記のような意味らしい。
らしい、というのは粋の意味が曖昧だと感じているからだ。
紹介した文章の中で粋について「すっかり消え失せた」と表現されている。
確かにそうなのかもしれない。現代においては見た目、そしてお金が重要視されており、整形して見た目をよくして粋になれるわけでもなし、金を稼げるからといって粋になれるわけでもなし。そういうつまらない人間を粋とは言わないだろう。
粋という言葉の曖昧さは日本の文化に根差していると思う。
曖昧でも伝わるものを定義するのは野暮なのではないか。
昔テレビで東京の下町の方に「あなたにとって粋とは?」という質問をしている番組を見た。
その際に心に残った回答は「例えば家の前を掃除するだろう?向かいにも家はある。そうしたときにさりげなく少し多く、6割くらいを掃除するのが粋なんだ。全部やるのは野暮ってもんだ。」と言っていた。
相手をさりげなく気遣い、押しつけがましくもなく、自己顕示するわけでもない。
確かに粋な行動だと思ったものだ。
他の渓谷飛越の記事はこちら。
【渓谷飛越】時代を超えて現代へメッセージ【第1回】 - 1978 -アラフォーからの一生モノ探しー
まとめ。
いかがだったでしょうか。
今回は赤峰幸生氏の許可を得て、過去に新聞に連載していた「渓谷飛越」から全8編中の第3編目「皆、空洞」をご紹介した。
誤字脱字には注意したが、全て手で入力したのでもしあったなら申し訳ない。
筆者の感想は全て文中に記載させていただいた。
皆様はどう思われただろうか。
毎週1回の更新を予定しており、次回は第4編目「差異性の同一性」をご紹介したいと思う。
最後に赤峰幸生氏に心からの感謝を。