1978 -アラフォーからの一生モノ探しー

アラフォーのオッサンが自分のスタイルを探し続けるブログ。

赤峰幸生氏に超ロングインタビュー!ブランドの歴史を振り返る。

今回はnoteで紹介した赤峰幸生氏へのインタビューをそこそこチラ見せ。いつか雑誌にしたいと考えていますが‥それはだいぶ先になりそう。だからこそ皆様にチラ見せするわけです。是非ご覧ください。

 

 

赤峰先生にロングインタビューをしました。1時間超。

もう文字にはしたのですが他との兼ね合いもあってまだまだ雑誌化は先になりそう。鮮度もあるので今回は抜粋版として皆様にご紹介します。

 

御年79歳となる先生への骨太なインタビューをご覧ください。

ちなみにnoteにもこんな記事を書きました。

こちらは有料記事なので興味がある方だけどうぞ。

note.com

 

 

赤峰幸生氏にロングインタビュー!

 

齊藤 先生今日はお時間をいただきありがとうございます。
赤峰 どうもどうも。よろしくお願いします。

齊藤 今回お聞きしたいのはAkamineRoyalLine(以降、ロイヤルライン)に至る過程をお聞きしたいと思っています。

長年服づくりをする中で、Way-out(ウェイアウト)があって、GLENOVER(グレンオーヴァー)があって、_Y.Akamine(ワイアカミネ)があって、そして今ロイヤルラインをやられていますよね。

ヴィンテージでそれぞれ購入させていただきましたが、それぞれ雰囲気が異なるというか。そこのなんか変化を教えていただければと思います。

 

赤峰 これはほら、もう知っていただいてると思うけど、洋服業界はもう、百貨店とかセレクトショップとか、そういう流れの中で僕は長年生きてきたわけで。

服というものに関わって来たわけなんだけど、簡単に言うと、どこの業界にも属さないっていう。

また服のタイプでも「俺はクラシックをやってんだ」なんてことを意識したことも一度もないしね。

僕が捉えて生きたかったことっていうのが、若い時からそれを意識してたわけではないけど、結果的にじゃあ俺はなんなんだろうというと、まあ一番ベタな言い方すると、やっぱりこう生きることの中での普通っていうものなんですよね。

普通の暮らしをしたいわけで、やっぱりこう普通に暮らすということが今逆に言うと、

着ることに対しても、食べることに対しても、もしくは住むことに対しても、

あらゆるものにやっぱり普通っていうものが、今存在しにくい状況になってるっていうのがあるんですね。

例えば家の中で普段から着ているものも、外に出かける時も、やっぱり失礼があっちゃいけないっていう思いがあるんだよね。

やっぱり失礼がないっていうことは、食事をする時も肘をついてご飯を食べるとか、くちゃくちゃ音を立てるとか。

そういうことを親がやってりゃ、子供は当然真似するし。うん、やっぱりそういうことがまあ、ある。

佇まいというか、やっぱり、全ての中に洋服があるんだと思ってるんですよ。

今のユニクロを中心としたファストファッション。それを買ってる人たちの暮らし方っていうのがそれぞれあるわけじゃないですか。

暮らしていくっていうことに一部の方は気づいてるけど、一部の方は相変わらず、そこそこのクラシックな服を着て、コンビニで弁当食ってるわけだよね。これじゃあね。まあ、正直言うと、箸にも棒にも掛からないんだよね。

収入が少ない方はそういう高い服もえ買えないとかね。やっぱ生活ができないということになる。それもよくわかります。

まあただ3年くらい前からうちに来ている大学生がねスーツを作ってほしいんですと。

当然、大学生ってことは収入がなないし、アルバイトしてるにしても厳しいじゃない。

比較的値段の抑えた生地をいくつか見せたら「先生もうちょっと良い生地ないんですか」と言うわけよ。

それでフォックスを見せたり、色々こう、マリーンアンドエバンス見せたりとか、あとビンテージの生地も見せて、こうやっぱりあんまり喋らないタイプじゃないけど、じっと触っていると、あのこれでお願いしますと。

ビンテージの生地だし、これは結構高いよ。どうしても32万ぐらいしちゃうよと。でもそしたらそれで結構です。と言うわけよ。

なんでって聞いた時に、「やっぱり先生が30年着ている服は1年間1万円でしょ、僕にとっては安いもんなんです。」

そういうふうに言ってきたわけよ。そう言われればそうだよね。

それから4,5着ぐらいは作っているんだけど、それで収入どうすんだよと聞いたんだ。そしたらそのま有名大学だからかもしれないけど家庭教師をして収入を得ているからご心配いただかなくて大丈夫ですと言われたよ。

僕が思ったのはそういう若者もいるんだということ。

 

クラシック、物作りへの思い

 

赤峰 そこでこう僕が思うのはやっぱり今のファストファッションだとか2万3万のスーツを着ている人もいるし、僕の言わんとしてることっていうのはねえ、カテゴライズだと思うんだよね。

多くの人たちに何かを広めるっていうようなものじゃないっていうね。でも絶滅はしてないわけよ。個人差もあるし、生まれ育ったところも違うし、収入を得ても家定があったり、食っていかなきゃいけないっていうのは誰でもあるんだ。

まやっぱりこう自分が年を重ねていくっていう時に、人生としての目標考える必要がある。着ることに対してもそうだしね。

そこにまあ結局ある種全てセンスだよね。

僕も若い頃、自分が願望したのはやっぱインテリジェンスになりたいっていう気持ちがすごくあった。それは例えば東大出たからインテリっていうそういうことじゃない。

人の前で人が知らないようなことをこう引き明かすような人もいるよね。

でもそういうのってあまり頭良くないんでよくないね。やっぱり知ってる人ほどそういうことをしない。もし語るとしたら、ひらがなのように分かりやすい言葉で語れるのがやっぱりインテリジェンスなんだよ。

それを聞いたことないような難しい言葉をやたらと散りばめながら言うような人はちょっとね。

 

斉藤 おっしゃる通りですね。私のいるIT業界はそういう人が沢山います。

毎年のように新しい言葉が増えていいます。カタカナばっかりです。

そして気が付けば使われなくなった言葉も沢山あります。

赤峰 だから何言いたいかっていうと、20年後に今はままの自分の人生に満足してるかどうか。

もちろん100パーセントはないはずですよ。皆さん満足するためにもがいています。

もちろん上を見ればきりがないかもしれない。

フルハンドメイドの服もあるけど、僕なりのやっぱり基準でこれだったら自分自身に納得できるというものを作る。

やっぱり、多くの会社は逆算してなものを作るわけだよ。

4万円のスーツというものを作るために会社はこれだけで利益を残したい。そのために1メーターの生地がいくらでって。

工場はバングラディシュなのかベトナムなのか。そうやって利益から考えるからおかしくなる。

 

グレンオーヴァーへ。

 

斉藤 なるほど。昔からずっと一貫してご自身の基準で納得できる服かどうかなんですね。
赤峰 ずっとそれなんですよ。だから最初のウェイアウトもそうです。

ウェイアウトから、さらにグレンオーヴァーを作った時は、生地の卸をやっている方がいて。僕よりも全然年上の人でもう亡くなっているんだけど「赤峰さん、僕の夢があるんで聞いてくださいって」

どういうことですかって聞いたら、生地の卸し屋で終わりたくないんだと。

やはりアパレルをやりたいですと。是非一緒にやってほしいっていうところからきっかけで。今から40年くらい前の話かな。

まあ、アパレルはお金かりますよと言ったら、どのぐらい用意すればできるんですかと言ったんで、

最低でも2億は準備しておかないと、やっぱりできませんねと言った。

お金の意味は、僕がやりたいアパレルを作りたいっていうのがあった。まずはどこで作るかっていうんで、ホテルオークラの蓮向の、ちょうどスペイン大使館がある隣にアザブハイツアパートメントってのがあって、これ外人専用のアパートメントだったんですよ。日本人は住んでないわけ。

確か住友がやってたんだけど、そこの1階で6LDKぐらいだったんだ。庭が大体50坪だったかな。

でも、ものすごい太い木がボーンとあってさで、そこに場所を決めたわけ。もちろん当然家賃だよね。そこがスタートでグレーオーバーが始まったわけ。

それで人をどう集めるかっていうので、こいつはできそうだなという何人かに声かけて。大体6人とか7人ぐらい声かけて。

僕は監督だから、誰をどういうシフトでやるかみたいなことを決めて、それで立ち上げたんだ。

それでようやく例のダッフルにしてもそうだし色々作る。

もの作るときは1番、ストイックになるんだ。うん。やっぱパクって作るようなことは自分の中で許せないから。

 

Y.Akamineへ。

 

斉藤 なるほど。それではその後すぐにワイアカミネを始められたんですか?

赤峰 いや、グレオーヴァーでは僕もほら株主だった。

それで株を全部買い上げていただいて2000万ぐらいあったんだよね。

そのお金と退職金を全部をつぎ込んでインコントロを作った。

斉藤 ああ、なるほどそうなんですね。インコント中のブランドとしてワイアカミネが誕生するんですね。

赤峰 うんでも、ワイアカミネに至るまでは自分の新たな挑戦があって。代官山でレストランをやってる大分出身の方がいて、それが見事に失敗しちゃって。

次はイタリアンのお店を出したいから力貸してくれってお願いをされて。

それで契約をするんだけど安いんだよ。契約金額なんかさ全然安いんだからさ。

でも契約した以上はちゃんとやらなきゃいけない。それで色々考えてさ、その時に思ったのは、やっぱりジャケット着てるけど、そこまでかしこまらないっていう。

今で言うドレスカジュアルのようなスポーツとのちょうど中間的な店を作りたい。

だからフローレンスの地方の郷土料理屋をやりたいと思ったんだ。

それをやるにあたってはイタリア人が調理してほしい。例えば沖縄料理を韓国人がやってたらちょっとおかしいじゃない。それでもうビザを取るみたいなことも色々ね。それで40席のケーブルででランチをやらない。

夜だけ。それで3か月間ぐらいは全然客来なかったよね。

それから徐々に徐々にお客様が来るようになって。

しばらくしたら行列ができるようになって、その時はイタリア人スタッフが4人いたのかな。さっきも言ったけどテーブルは40テーブルしかないんですよ。

それがもう毎晩満席の状態が2年ぐらい続いて。もうとにかくブームになっちゃった。

 

中略


斉藤 インコントロとしての服を作り始めたのはいつ頃なんでしょうか。

赤峰 飲食店がどれだけ繁盛してもインコントロは飯食えない。

だからグレンオーヴァー時代にイタリアの色々なメーカーとお付き合いがあったわけ。ロベルトコリーナだったり。それで僕が独立したら、みんなが赤峰、日本の代理店は赤峰がやってくれと。

それで契約をして、それでまあ、ロベルトコリーナとか全部で20社ぐらいやったかな。

斉藤 凄いですね。もちろんロベルトコリーナは存じ上げてますがそんな話は知りませんでした。

赤峰 初期頃はそんなことをやってたわけなんだけどそれでもお金が足りない。

それの時にオンワードの当時の副社長が、ちょっとお願いなんですけどって言ってきて、それが今から20~30年ぐらいの話かな。ジャケットが三陽商会に負けてて、オンワードが全然売れないと。当時もスーツはそこそこやっていたけど、やっぱり新ブランドを作ってもらいたい、という依頼だったんだ。

そのときに立ち上げたのが五大陸なんですよね。

 

 

斉藤 五大陸の立ち上げの話しに繋がるんですか。やはり企画とかデザインをされたのでしょうか。

赤峰 やっぱりまずは滑走路かな。フライトできるような状態にするには、ただ企画とかデザインだけするんじゃなくて。全体の店舗の作り方とか、販売に対しての接客の仕方とか、知識とか。ま、そういうもうあらゆる共有だよね。ある種の教育とか企画のアドバイスから始めたんだ。色々あって五大陸が立ち上がってからピークのときは180億ぐらいまでなりましたよ。うん。

その後に僕は離れるんだけど、そうすると秋のつるべ落としのように、うわっと下がってくるんだよね。そこで企業ってのはやっぱり人ありきなんだよね。うん。最後の最後はやっぱり人。それが1番。
斉藤 五大陸は今でもありますがあまり聞かなくなりましたね。昔は国産スーツの雄ってイメージでしたが。


赤峰 何かを始めればまた新たな世界が、人との出会いがあるだろうし。うんうん。

イタリアのまあエージェントをやりながら、それだったらもう他のブランドを売ってるのも嫌だよなとなって、ワイアカミネという、イタリアでものづくりをするブランドを作ったんだ。1年のうちの半分ぐらいはイタリアに行って、イタリアの中でも移動移動。北海道から九州まで行くようなもんだよ。

もういろんな工場行ってさ。当時はスマホなんてないしから汽車の時間見ながらね。ローカルで行って。田舎の工場へ行っても言葉がね。片言で身振り手振りで会話をするみたいな感じで。

 

合わせて読みたい。

AkamineRoyalLineの記事は以下をご覧ください。

スーツやコート、シャツやトラウザーズからネクタイ靴下まで紹介しています。

AkamineRoyalLine カテゴリーの記事一覧 - 1978 -アラフォーからの一生モノ探しー

 

まとめ。

いかがだったでしょうか。

今回は赤峰先生にロングインタビューした内容から抜粋してご紹介しました。

こちらのブログでは書けない内容も多い。何よりボリュームが多すぎて今回紹介した内容の倍以上の文字数があります。いつか雑誌‥または本として出すのでそちらをお待ちいただければ。いつになるか全くわかりませんが(笑)

 

赤峰幸生というファッション業界の重鎮、その顔の1つをご紹介しました。

かなり赤裸々な内容が多いので全量紹介する日を斉藤さん。自身も楽しみにしています。先は長いですが。

 

 

今回は以上です。ありがとうございました。